スタディーサークルが大切なわけ

コラム

スタディサークルを開催している中で、頻繁に耳にするのが「今の社会は生づらい」という言葉だ。

スタディーサークルの仲間とその原因を色々と考えてきたが、その原因の一部として下記のようなものがあるんじゃないだろうか。

・自己責任社会
・人の働きを商品としてみる
・消費者的な生き方

自己責任社会

「自分が社会的にうまくいかないのは、自分の努力や能力が足りないからだ」という考え方で、人生を送っている人は多いのではないだろうか。

学校で勉強をする理由も「社会の中でサバイブしていくための力を獲得する」という目的の人が多いのじゃないかと思う。

親が教育にお金をたくさんかけるのも、「自分の家族のことは、自分たちで何とかするべき」という「自己責任」という価値観が根底にあるんじゃないかなと思う。

自己責任ということ自体はどうしようもないことで、狩猟採集時代を見てみても、猟で獲物が取れなければ、自分たちが飢えるというのは当たり前だ。

ただ、共同体の中で一部の人だけが食事をおなか一杯食べることができて、一部の人はすごく飢えているというのはやはりおかしい状態で、そこは共同体として分け合って、全体としての最適を模索するべきだと感じる。

日本人は、貧富の格差を容認する方向に向かっているという調査結果もあり、「なぜ私たちは社会という共同体の中で生きていくのか」ということについて、立ち止まって考えなおすタイミングに差し掛かっているのかもしれない。

トリクルダウン理論(富裕層への減税によって、富がしずくとなって下層の人々にも流れ落ち、最終的にはすべての人に利益をもたらすという考え方)が否定される中、私たちはどこに向かえば、社会全体の幸福を目指すことができるのか。

そんなことを考えているときに、為末大さんの「社会全体の幸福量を上げるために個人がどう振る舞うべきか」という言葉に出会った。

日本では働けば働くほど、社会全体の幸福量が増加した「総中流社会」といわれた時代があった。

ただ、今の時代は一生懸命に働いても、社会全体の幸福量が増加するどころか、一部の人に社会全体の幸福量が集約してしまい、大多数の人が不幸になるというベクトルが大きくなっているように感じる。

社会という共同体が「社会全体の幸福量を上げる」ために存在するとすると、私たちの社会はどんどん反対の方に向かってしまっているんじゃないだろうか。

つまり「自己責任」という考え方が強すぎると、みんながサバイバル状態になってしまい、社会全体としてどのような状態が望ましいかということについて考える力が弱ってしまうように感じる。

このように考えると私たちが抱える「生きづらさ」は、行き過ぎた「自己責任社会」によって「社会という共同体の存在理由が不明瞭になって、みんなが迷子になっている」からだとも言えると思う。

人の「働き」をどう認識するか

生きていくために私たちは様々なサービスを利用することが必要だ。

そういったサービスは自動的に生み出されるのではなく、たくさんの人が朝早く出勤して、職場の人間関係で苦労しながら、人生の時間を費やすることで生まれる。

本来であれば「働く」ということは、社会全体の幸福量を上げるために、私たちそれぞれが自分のできる範囲で社会に貢献するという意味が強いのではないかと思う。

言いかえると、「働く」ということは、「人と人との助け合い」であるともいえる。

一方で私たちは、他者が生み出した「サービス」を、お金さえ払えば当然得ることができる「商品」として認識してしまっているんじゃないだろうか?

学校に対する親の強烈なクレームや、コンビニで理不尽に怒鳴りつける人がいるのは、「人と人との助け合い」が「働く」ということを生み出していることを忘れてしまっているような気がする。

僕自身にもこういった価値観は深く内在していて、当然受けとれると期待したサービスが受けられなかった場合、イライラしたりしてしまう場合がある。

人の「働き」というものを、お金を支払うだけで当然得れる商品として理解してしまうと、働く人の「助け合いたい」という気持ちは消滅してしまい、「働く意味」をすっきりと奪い取ってしまう。

他者に「お金の対価としての商品・サービス」を提供するために、人生の長い時間をかけて働いていると感じてしまうと、とても「生きづらさ」を感じてしまうように感じる。

消費者的な生き方

日本では戦後GHQという外部より「日本国憲法」をインストールしてもらった(された)という歴史がある。

そこには民主主義や社会保障・人権といった近代社会への道筋が含まれていた。

一方でこのような要素(民主主義・社会保障・人権)は、外部によりインストールされたものであり、戦後の我々は自分たちで「自分たちの社会のあり方」というものを見つけ出し、皆で合意し、インストールしてきたという経験が少ない様に感じる。

そのことは私たちを「誰かがやってくれるだろう」「何かを変えるのは自分ではないだろう」という「消費者」に閉じ込めてしまってるのではないだろうか。

そういった風潮は、「とりあえず自分だけは生き残れれば良い」「社会全体としては衰退していくが、自分が生きている間は自分自身は何とか守る」という「諦め」にもいえる風潮を作り出し、その希望の欠如も「生きづらさ」に繋がっているように感じる。

スタディーサークルが大切なわけ

では「私たちは何ができるのか?」

まずは、私たちが感じる矛盾を「なかま」とともに理解することから初めてみたい。

一人で鬱々として悩み、何もできないと苦しむのではなく「なかま」とともに共有する。

そしてそこから少しずつでも良いので「社会全体の幸福量を上げるために個人がどう振る舞うべきか」ということに思いを巡らし、その答えを一人ひとりが見つけ出し、具体的な行動に繋げる人が生まれていく。

「なかま」といった小さな「共同体」は、いつしかより大きな「共同体」となり、それは「社会」となる。

そのための最初の小さな小さな「なかま」を作るために、「スタディーサークル」というものが存在すんじゃないだろうか?

これが今僕が考えていることです。

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