仕事と呼ぶべきものを持っている人はいなかった

コラム

人生100年時代において、満足のいく人生を歩む方法として、仕事を生活の一部として生きるという方法があると思います。

ワークライフバランスという言葉があるように、僕たちはしばしば仕事と生活を分けて考えていて、仕事は生活や余暇を充実させるために、仕方なくやるものとして捉えていることがあると思います。

一方でワークアズライフという言葉があり、直訳すると生活するように働くという意味になるのですが、これは仕事と生活を区分しないで仕事を生活の一部に入れ込んでしまうという考え方です。

仕事を生活の一部に入れ込むとはどういうことか?
分かりやすいお話がありましたので引用します。

私はタスマニアの小さな村で育った。
必要なものは何でも自分達で作った。
靴も自分で作ったし、金属の細工もした。
魚も捕ったし、作物も作ったし、パンも焼いた。
仕事を1つしかもっていないという人は見たことが無かったし、
およそ仕事と呼ぶべきものを持っている人はいなかった。
誰もがみんないくつものことをして暮らしていた。
(「PERMA CULTURE」ビル・モリソン著)

「仕事と呼ぶべきものを持っている人はいなかった」という部分が僕は大好きなのですが、これこそが生活するように働くということなのだと思います。

つまり、食事を作ったり・洗濯したり・子育てをしたり・散歩をしたり・友人と語り合ったりする事と「働くこと」は並列にあり、仕事だけが異なる概念ではないということです。

現在の働き方は分業が進んだことで、自分の仕事が生活の一部であるということが分かりにくくなっているのではないでしょうか。

仕事をする理由を追求していけば、私たちが生きていく為という理由になると思うのですが、かつては生きていく為に社会から様々なモノやサービスをお金を介さずに得る必要がありました。

その為には自然から直接に食物や家の部材・服の原料などを得る必要がありました。

また、一人で作ったりすることができないものは、周囲の人の手を借りて協働で作り上げる必要がありました。

一方、現在ではお金さえあれば社会からモノやサービスを得ることが出来てしまう為、「働く理由」=「お金を稼ぐこと」になってしまっている場合があると思います。

本来は自分の労働力を社会に提供することで、社会からモノを得たり、助けてもらったりということが働くことであったはずが、その過程が分かりにくくなり、自分が生きていく為にお金を稼ぐということだけが、目的となってしまっているのだと思います。

また社会からモノを得たり、助けてもらったりする為には、豊かな社会を作っていく必要がありますので、働くことは「豊かな社会を作るお手伝いをすること」とも言えるかもしれません。

つまり「生きていくこと」と「働く」ということはほぼ同意味であるとも言えます。

人生100年時代において生涯働き続けることを災厄としない為には、仕事をお金を稼ぐ為にしているという短絡的な視点から抜け出し、「生きる様に働く」ということが必要だと思います。

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