「人間てすごいな」 HIROKOさん

新しい生き方インタビュー
プロフィール

HIROKOさんは大阪府在住の76歳。
40代の時に通勤途中で交通事故にあって、脊髄損傷と高次脳機能障害の状態となられました。
首から下が麻痺し、 高次脳機能障害により記憶することが困難となりました。

徐々に痛みが和らぐ中、自ら感じた福祉の改善点を、ケアワーカーを通じて行政に提案。障がい者福祉の向上に貢献されました。

持ち前の決断力とバイタリティは、同じハンディキャップを持たれる方に勇気を与える存在だと思います。

交通事故にあって

交通事故にあわれたとお伺いしました。

事故に会う前は医療関係の仕事をしていました。ある日、国道バイパス道路を1人で車通勤している途中に、交通事故にあいました。車同士の交通事故でした。シートベルトを締めていたので、車外への放出は免れましたが、そのまま意識がなくなり、1か月後に目が覚めた時は「どうして体が動かないの!?」という状況でした。

色々なことを思い出すまで時間がかかりました。 記憶が戻らないし、記憶することもできないという状態が長く続きました。でも当時は自分ではそのような状態になっていることが、自分では認識できませんでした。

脊髄損傷とは

脊髄が損傷されることにより、手足に麻痺を生じたり肺や内蔵がうまく働かなくなったりすること。 損傷が頸髄ならば手足ともに、腰髄ならば足のみといったように、損傷される部位により症状は様々。

高次脳機能障害とは

交通事故などによる脳の損傷が原因で、脳の機能のうち、言語や記憶、注意、情緒といった認知機能に起こる障害のこと。

病院から自宅へ帰って

退院後、帰宅された時はどのような状況でしたか?

複数の病院で1年以上入院した後に家に帰ることができました。 退院して家に帰っても何もできない状況でした。交通事故にあった時、私には夫と大学生の子供が2人いました。息子は私の看護や家事をする為、家と学校を往復するだけで、友達を作ったりするのを遠慮していた様な気がします。

最初のうちは尋常じゃない痛みがありました。特に頭痛が激しかったです。重たい何かをかぶっている感じ。 でもそういうことは周囲の人には分からない。「痛い痛い」と言ったとしても、治らないんだから言いませんでした。そんなことになっているというのは、自分にしか分からない。理解してもらうのは難しいです。

今は痛みもだいぶ改善してきています。頭痛が良くなってきたことで、物事を考えることができる様になったのだと思います。

また、特にトイレが大変でした。 ヘルパーさんが快くトイレに連れて行ってくれるわけではありませんでしたので、食べるのが嫌でした。よく主治医の先生にも、食事をちゃんと食べるように指導されました。

当時、大阪で介護用品の展示会があったので見に行かせてもらい、移動リフターを購入しトイレに行けるようになりました。天井走行のものもありましたが、それを設置してしまうと大がかりなものとなってしまい、それこそ障がい者の家になってしまうと思い、移動リフターを選択しました。当時、介護用品の分野では、日本は後進国で、海外製の用品を購入する必要がありました。

障がい者福祉について感じたこと

家で過ごしながら、どのようなことを感じておられましたか?

当時は本当に障がい者の福祉がおそまつでした。

ヘルパーさんの教育もあまり充実しておらず、知識が足りない状況で、こちらの言っていることが伝わらないことがよくありました。 褥瘡ができるので体位変換の必要があるのですが、ある時など上半身と腰の向きが反対になっていた様なこともあり、子供が帰ってきてから、「お母さんしんどいでしょ」と言って治してくれたこともありました。

また、洗濯や家事はほとんど家族がしないといけないような状況でした。夫にも子供にもそれぞれの人生があります。すべてを自分達でやらないといけないことになると、夫に仕事を辞めてもらうことになり、介護だけで疲れ切ってしまい、もし夫が倒れたらどうしてくれるのかと思いました。また、夫には今まで通り働いてもらい、税金を納めてもらった方が、社会的にも良いのではないかと考えていました。

ワーカーさんに入ってもらわないと生きていけない状況でした。

でも、当時のサービスでは時間的にも十分でなく、私は「生きていけない」と感じました。

子供達には子供の人生があるので、とにかく社会に出したいと思っていました。子供達の人生を第一に考えていました。子供には自分の人生を生きてもらいたいと思っています。

その様なことを、ワーカーさんを通じて行政などに伝えていました。何年か後ですが、ワーカーさんが私のところにきて、「HIROKOさんのお陰で障がい者福祉のレベルが上がりました。ありがとうございました。」といってくださいました。

ネットとの出会い

退院して1年くらいした時に、インターネットができるようになるということを新聞で読みました。私はインターネットに大きな可能性を感じ、勉強に行きたいと思いました。

当時、日本でインターネットをしている人口は1000人くらいという時代でした。 ネットで色々な人と繋がりたいという気持ちがありました。

探してみるとNPO法人が開催している障がい者の人向けの講座があることが分かりました。でも主治医の先生には「行ったらダメ。死ぬよ」と言われました。また、周囲の人からはみな反対されました。

当時は循環障害を起こしている状態で、新しいことを頭に入れるのは不可能と言われていました。でも私が生きよう!と思ったらこれしかないと思いました。

私は「行く」と決めていました。責任は自分でとると決めました。

夕方に家を出発して帰ってくるのは、23時をまわっていました。私にとってはとても負担が大きく、 週1回の授業でしたが、その週1回の授業を受けるために、1週間ずっと寝ていました。

手をうまく動かすことができなかったので、キーボードを打つために最初は口に棒を咥えて打っていました。それではうまくできなかったので、タッチパネルを購入しました。でもタッチパネルは指圧と体温がないとうまく動かない。私の指の圧ではうまく動きませんでした。また、文字入力を押した後に手を挙げることができず、押したままになってしまう様な状態でした。文字入力を押した後に手をあげることができる様になるまで、1年くらいかかりました。

HIROKOさんが使っておられる装具

そのNPO法人のコンセプトは、「インターネットで障がい者の方も仕事をし、納税者になりましょう」というものでした。私はそのコンセプトに強く共鳴しました。

施しをうけるだけではだめ。生きがいが何一つないから。やっぱり社会に貢献する必要がある、と思っていました。

当時、様々な方から、コンピューターのスキルを活かして仕事をするように勧められました。会社を立ち上げたり、講師として活動できないかという打診もありました。当時はインターネットの創成期で、楽天もまだできておらず、アマゾンが海外で動き出している様な状況でした。残念ながら周囲の方の反対などもあり、実現には至らなかったのですが、そのような新しいサービスをはじめたいという願望を強くもっていました。

授業には大学生のボランティアの人達も来られていましたが、4人の大学生の方が「会社を立ち上げるなら一緒に働きます」と言ってくれていました。私が実際に作業するのではなく、「こういったことをしたい!」という大きなコンセプトを伝えることで、会社を大きくできるという期待がありました。私には決断力がありますから。

これから大切になること

これから人口構成が大きく変化する社会になります。どのようなことを考えていく必要があると思われますか?

ワーカーさんの中で、福祉関係の大学院を出てこられた方がいらっしゃいました。その方は、私たちの様な障がいをもった人はもっと公の交通機関を使用して外に出ていき、同じ社会に私たちの様な人が生きているということを知らせないといけないと言っておられました。それまでは隠してしまう様な風潮があったのだと思います。

また、知人でアメリカの福祉について勉強されている方がいました。アメリカには町が丸ごと福祉というところがあります。そこに私も行って勉強をしたかった。どうしたらそういう社会をつくることができるのか。一人では創ることはできません。私もそこにいって勉強をして、社会を動かさないといけないと思いました。

アメリカでは障がいの程度に応じて仕事をされている方が多い。給与もきちっともらって、一人暮らしをして自立している方もいます。日本は障がいを持っている方を囲って福祉と言っていますが、やっぱり社会に出てもらった方が良いと思います。そういう社会にしないと今からは難しいと思います。

活動することで、「障がい者の方をもっと幸せにできたかも」と思います。

自立心を持つのはとても大切です。自分のことは自分でやりたいと思います。

息子さんがつけてくれたという「アレクサ」
お伺いしたときに、アレクサに話しかけて電気をつけておられました。

これから高齢者の割合が増えていきます。その様な中で、80代でゲームを作った女性の話などは本当にすばらしいと思います。おひなさまの並べ方とかを知っているのは、その時代に生きてきた人ならでは。その様な知識を活かして、無から有を生むのが一番いい。高齢者はいっぱい色んなことを経験しているので、そういうこともできるのだと思います。

生きていくのは難しいです。昔は年配者は世間から大事にされて、のほほんと生きてきた。今は自立しないといけない。社会と繋がっていかないといけないと思います。

私は目と耳と口は大丈夫。首から上は正常。普通にできるということはすばらしいことです。人間てすごいなと私は思いますよ。せっかく元気に生まれて、教育も受けれているなら、お仕事もして、社会貢献もしてということを考えないといけないと私は思いますね。

編集後記

HIROKOさんのお宅にお邪魔したのは、夕方17時頃。
ベット際の掃き出し窓を開けて頂くと、優しい夕日と涼しい風が室内に入ってきて、とても快適な空間でお話をお伺いしました。

驚いたのはHIROKOさんの全身から溢れるバイタリティと元気さでした。大きな声で笑いながら、満面の笑顔でご自分のことはもちろん、社会情勢やIT関係のことも含めたお話をどんどんして頂きました。まさに体中から自信が満ち溢れている様でした。

また、ご自分の息子さん達への愛を非常に強く感じました。 「子供には自分の人生を生きてもらいと思っています。 」という言葉を再三言っておられました。

生きていくのに精一杯という状況の中、自分のことばかりを主張するのではなく、周囲の人の幸せを願っておられることに感動しました。また同時に自分の生きている目的や、やりたいことを真摯に考えておられ、自分の経験からどのような社会貢献ができるのかということを追い求めておられる姿は、本当に美しく魅力的に感じました。

「人間てすごいな」

忘れられない響きとなりました。

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