「すべては美しくデザインされています」 ソリトン One-J .llc 代表社員 CEO 塩井 淳子氏

新しい生き方インタビュー
プロフィール

塩井淳子さんは、1967年岡山市生まれ。
高校時代より、認知症の祖母と、寝たきりの祖父の、在宅介護に関わっておられました。

その後、大手農薬メーカに入社。

しかし、家族の経営する寝具メーカーが、バブル崩壊のあおりを受け経営危機に直面。
経営を立て直すべく、メインバンク指導のもと体当たりで経理・財務を覚え、資金繰り・資金調達などの業務に携わられました。
つぎつぎと取引先が破たんし、手形不渡り直前という状況が続く中、様々な経営再建の取組を行い、赤字体質を3年で黒字化に成功しました。

その後、2004年には電子機器・半導体ベンチャー企業に入社。
人材教育担当として入社したものの、研究開発費増大による資金難から、VC調達に着手。その後、大規模な本社工場移転に係る立地認定や建設資金調達、補助金等の認定業務を担当。

同時に、研究開発のための産官学連携コーディネーターとしても実績を上げられました。
特に関与した産学官連携研究開発は
・大阪府地域結集型共同研究事業「ナノカーボンの活用技術の創生」にかかるカーボンナノコイルの剥離技術の確立
・ツイストピーリングオフテクノロジーの原理解明
などがあります。
文部科学省による産官学連携コーディネーター育成プログラムの講師や、経済産業省 「人財セミナー」講師等も務められました。

執行役員の任を与えられ、工場立地や海外現地法人立ち上げ等に関与するも、DVのフラッシュバックに倒れ、外出もできなくなり同社を退職されました。

数年間の療養の後、ホームレス・DV被害者・ニートなどの社会的弱者自立支援のNPO法人を経て、2012年11月合同会社ソリトンOne-Jを設立。

現在は、父と、畑を手伝ってくれる元ホームレスの方2人との、4人暮らし。子ども食堂やメンタルが不調な方への支援などをしておられます。

介護と実家の経営危機

少女時代から社会人になるまでのことを教えて頂けますか?

プロフィールにもありますが、私は中学生・高校生の少女時代から、祖父母の介護をしていました。母は店を持っていましたし、父も経営をしており、当時、介護施設はまだあまり無い時代でした。県外の大学に進学したいとも思いましたが、この様な状況では難しいと思い、 介護しながらでも通える地元の短大を選びました。このままであれば就職も難しく、結婚なども難しいなと、 私は勝手にそう思っていました。

ところが、短大を卒業する直前に、祖母が急に亡くなってしまいました。突然のことだったので、「あれ?どうしよう?就職?」となりました。あわてて就職課に駆け込んだところ、一件いいところがありますよということで、東証一部上場の農薬メーカーに就職することができました。

家業である布団メーカーでの経営について教えて頂けますか?

実家は1800年代から続く製綿業で、布団を作っていました。しかし、バブルが崩壊したことで、一気に経営状態が悪化し、私も手伝わざるを得ないこととなりました。その時には結婚もしており、幼稚園の子供2人もいました。当時は簿記も知らないし、手形って何ですか?という状況でした。

何もわからない私は、銀行の支店長室に行くにも、幼稚園児2人を連れていました。ただ必死でした。数年後、経営が落ち着いたころ、行員達から『それを見て、「終わった。」っと思いましたよ。まさかここまで立ち直れるとは。まさに奇跡の不死鳥ですね。』と言われたこと思い出します。

バブルの崩壊の後でしたので、周りは本当に大変な状況で、老舗の問屋さんも軒並み潰れてしまい、経営者の方の中には首を吊られる方もいらっしゃいました。本当にびっくりするようなことが、山ほど起きました。

ある日、金曜日の15時過ぎくらいに電話があり、おたくの取引先の商事会社さんが今日、裁判所に破産申請されましたという内容を電話口で告げられました。従業員さんが周りにいるので、「ありがとうございます」と笑顔で誰にも分からないようにしていましたが、その取引先の手形を億単位で持っていましたので、「もう終わった。今日で会社は潰れる。」と思いました。

億単位のお金を動かしていたのに、いつも1円のお金にあくせくしていました。たとえ1円足りなくても手形の不渡りが出る。従業員に給料は払っても、子どもにお米が買ってやれず、庭の雑草を食べてみたこともありました。

そのような中、赤字体質だった会社を立て直す為に、何が問題なのかなと考えました。山ほどある在庫をお金に換えること。たらたらと時間がかかっている納期を短くすること。もっとクイックにお客様へ返答することなどを必死で考えました。その中でも在庫の圧縮は、スペースなども効率化でき、また在庫をお金に換えることができ、経営改善には大きかったと思います。

しかし、当時は中国から安い布団がどんどん入ってくるなかで、値段だけで叩かれて、メーカーとしての存続の意味が見出せませんでした。「日本でしか作れないモノづくり」で「後世まで通用する商品」を開発できないのであれば会社は閉めた方が良い。続けることは社会悪だとまで思っていました。その思いに突き動かされて、難しい商品開発の壁を乗り越えられたのだと思います。

パリパリのキャリアウーマン時代

ベンチャー企業時代のお話をお伺いできますか?

その後、大阪に引っ越して、半導体・電子機器のベンチャーに再就職しました。 ベンチャー企業の社長は、松下の元開発者で、50歳の時にスピンアウトされた方です。電子機器が不良にならない為の、洗浄装置を開発されました。そこにご縁があって行くことになったのですが、「これでお金の心配はいらないわ」と思いました。

人事の教育担当として入職し、「ひとりひとり個性は違うけど、それぞれが喜んで働ける環境をつくること」をしたいと思っていました。仕事が自分の生きがいであったり、嬉しいな、楽しいなという風に思えるような環境を作りたいと思いました。

20代の頃、ロータリークラブの次期指導者育成の為の「ローターアクトクラブ」を、ずっとやっていました。ロータリークラブは奉仕団体で、世界的な組織です。「ローターアクトクラブ」ではリーダーシップを学びながら、地域貢献・社会貢献をしています。何百人も人を集めて、地域のボランティアや市民活動などの企画をしていました。

活動を通じて、人材育成をずっとやってきたので、そういうことをやりたいと思っていました。ひとりひとりが本来持っている力を発揮できる、そういうポジションで仕事をしたいなと思っていました。

そうして念願の人事に配属になったのですが、入社してまもなく、経理のパートの女の子から「従業員の社会保険料が払えないんです。」と相談がありました。私は、家業で慣れていましたので金額を聞いて「全然大丈夫!大丈夫!」とその子には伝えましたが、帳簿を見ると、5か月先にはもう資金ショートするという状況でした。

そこでやむを得ず、資金調達に着手することとなりました。その時点で、既に銀行からは調達が難しい状況でした。後は株式上場を目指して投資家からお金を集めるしかないという状況で、それが出来なければ会社の存在は厳しい、伸るか反るかの状況でした。

特別な発明を持っている開発型の企業でしたので、それが会社の生き残れる唯一の方法だと思いました。入社したてにもかかわらず、資金ショート目前の限られた時間の中で、第三者割当増資などで、ベンチャーキャピタルなどの投資家から資金を集めるために技術的な内容を含め、膨大な資料を作成しました。

当時の私は「人生は修行だ」 「頑張ってなんぼだ」 「自分がやらなくっちゃ!」と思っていました。。祖父母の介護や、家庭での苦労を通じて、「私が頑張って背負って、耐えなくてはいけない!」という考え方が、そのまま身についてしまったのだと思います。やらないで良い様なことまで、やっちゃってたと思いますね。

仕事はとても面白く、働いている人もとても魅力的な人が多かったです。社長の人事施策も面白く、給料は自分で採点して自己申告制という制度がありました。また、パートのおばちゃん達は、自分で休みを申告するという制度もありました。パートの方が、自分の背より高い自動洗浄装置を、回路からすべて組み立てされます。納品日から逆算して、予定が立つのであれば、どういう風に休んでも良いという制度でした。学校行事は率先して休まなければいけない!ということも決めていました。みんな本当に楽しそうだった。

また、「60歳以上の従業員を1割以上雇わなければならない」ということもやっていました。なぜなら、「社員の年齢割合も、日本の人口比率に合わせるのが、自然でしょ」という考え方が、社長にあったからです。しかし、投資家や会計監査法人から、年寄りばかり増えて効率が悪いと、猛反発を受けました。でも、この施策がすごかった。

この方たちにお願いしていたのは、若者の話し相手でした。会社には、「やりたいという人に、やってもらう」という風土がありました。ある新卒の男の子に「世界初の開発やらん?」ということで、白羽の矢が立ったことがありました。彼は大学では全く違う領域のことを研究していましたが、本当に世界初の開発ができてしまった。(カーボンナノコイルの剥離技術の確立 )。

プレス発表の時に、彼が次の様に語りました。「これができたのは僕の力だけではなくて、シルバーのおじいさん達や、パートのおばちゃんのお陰です」

会社には落ち込んだ時に、「大丈夫だよ」と言ってくれたり、大変でも助け合う仲間がいました。

会社は「ものづくり企業」としてだけでなく「ひとづくり企業」としても注目を浴びるようになり、毎週のようにマスコミや様々な取材や来客がありました。ある時、新任の近畿経済産業局長がおいでになり、そのパートの方に、「この仕事はどうですか?」と聞かれたことがありました。そのパートの方は、「楽しいです!」と言われました。「何が楽しいんですか?」という質問に「動かなくなったものが動くようになるのが快感なんです。汚かったのが綺麗になるのが、子供が綺麗になったようでうれしくって。」と満面の笑みで答えた彼女は元保育士さん。

まもなく、経産局長から「表彰したい」とご連絡があり、その理由をお聞きすると「楽しかったので。」と答えが返ってきました。「楽しい」ことは表彰対象になることを知りました。

そういう現場を見ながら、私も感動しました。あの職場に行くと、とても楽しいと感じることができました。

心療内科への通院。そして全く別人の様な自分へ。

DVのフラッシュバックにより出社できなくなったとお聞きしました。どの様な状況だったのでしょうか?

パリパリのキャリアウーマンとして働き、株式公開に向けた膨大な仕事を抱えていましたが、社内外の人々との関係は私にとってオアシスのようでした。ところがプライベートでは10人家族の嫁であり、しかもDVの渦中に私はいました。

私は「人生は頑張ってなんぼだ」と思っていたので、夜は寝ることはできない状況であったけれども、死ぬまで頑張ってやるという風に思っていました。だけど、段々と体も心も壊れてしまい「これはおかしい。このままいけば大変だ。」と思って、心療内科に初めて行きました。

医者からは、「めちゃくちゃされましたね。お薬でも飲んで、落ち着いたら離婚でもされたらどうですか?」と言われました。当時は手足が震えるような状況で、薬を飲んだら少しは楽になるのかしらと思って飲んだのですが、でも、よく分からないなという感じでした。

その3日後、私は大阪市内に出張したまま、恐怖で家に帰れなくなりました。幻聴幻覚はあるし、普通の状態ではなかったのです。その後、私は廃人状態になったのですが、今思うと向精神薬による副作用によるものだったのではないかと思います。しかも娘の高校受験のほぼ1週間前のことだったので、母としてはありえないことだと思います。

自分でもどうしていいのか分からない。家に帰れない自分を責めました。自分で自分をコントロールできない状況になった。その時は薬が理由だと、分かりませんでした。

もうDVシェルターに行くしかないと決心して手続きをする中で、DVシェルターからはお勤めにいけない、と聞かされました。社長に「今からDVシェルターに行くのでしばらくお休みします。」と伝えると「うちに来たら?奥さんが、話相手くらいになることはできますよ」ということを言ってくださり、もうろうとして震える私を奥様が迎えに来てくださいました。

そこで私を驚かせたのは、ご夫妻が食事の時、テレビを見ながら一緒に笑っている姿でした。
「これが普通だったんだ!」
普通のことが普通で無くなっていたことに気がつきました。

それからの私は、全く自分では努力できない状況になってしまいました。例えば、それまで私のスケジュール帳には、2年先までスケジュールがみっしり入っていました。だけど家に帰れなくなった後の私は、ほんの1時間先のことを考えるだけでパニックになって、恐怖が来て、倒れてしまい救急車で運ばれてしまうような状況でした。

全く別人のようになってしまった。何も努力できない。努力しようとすると倒れる。頑張れない。全く自分が思うようにできない。原因は薬の副作用もあると思います。その時は、まさかそれが原因だとは分からないですからね。薬の添付文書を見れば、副作用について書いてありますよ。自殺企図とか、死亡とか。でも医者からは一切説明はありませんでした。

それまでは、頑張ってなんぼと思っていたので、頑張れない人に対して、どうしてあの人頑張れないの?とかいう蔑んだような思いが、どこかで自分の中にあったんではないかと思います。でも自分が全く頑張れなくなって初めて、頑張れない人も世の中にはいるんだなということを知りました。

頑張りたいけど、頑張れない。当事者になって分かったことが山ほどあります。助けてを求めて役所に行っても、どこにいっても、うちでは何もできませんね〜と、たらいまわしにされる。話す度にフラッシュバックしてパニックになる。でもなぜパニックになるとか、誰にも理解できないですよね。男性がそばにいるだけで、救急車に運ばれるような状況でした。自分でもびっくりしました。お世話になっている人が近づいてくるだけで、過呼吸になったりしたこともありました。

そのような状況から、どのようにして回復されたのですか?

当時は息をするのも苦しくて、「どうやったら息が楽にできるのかな」「この瞬間だけを、どうやったら私は喜べるのかな」と考えていました。

でも、その時は「何が私はうれしいのかな」というのが分からなくなっていました。

そんな中で、私の心を喜ばせてくれたのは、小さなベランダガーデンでした。

「ああ。本当にこのお花かわいいな」とか、「いい香りがするな」と自然に触れて、ようやく息が楽にできたように思います。

先のことが考えられなくなって、こうして、この瞬間を喜んで楽しむしか生きることができなくなりました。人間は過去も未来もなく、この瞬間しか生きていないことに気づきました。本当にそう。

私の未来はなるようになると思っています。必ずなるようになる。私が努力を放棄したときに、自然の摂理の通りになるんだと思います。花が咲いたり鳥が飛んでいるけど、努力している訳ではないでしょう。蝶が飛んでいるけど、彼らは悩んで蜜を吸っているわけではない。

すべては美しくデザインされています。

なぜ人間だけ悩む必要があるのか。花が咲いた後は、実がなる。本当のこと。誰も疑わない。私はそれが一番素晴らしいと思う。人間は余計にああだこうだと考えるから、おかしくなっていく。

この瞬間に生きていていることが奇跡ですよね。花をみながら、この花もどれだけ芸術的なんでしょう。この葉っぱのデザインもすごい。

ましてや私たち人間のデザインもすごくないですか?生きてくメカニズムもすごい。しかも一人一人のデザインが全部違う。たとえ世界のどこかで私に会っても私だとわかります。似た人がいても、塩井淳子でないとわかる。

私は唯一、私。

そういう風に考えるとすごく楽しい。でも、それは私が考えることができなくなったから、初めて知ったこと。「花が終わったら実がなるんだ~」という風に自分の人生も、次はどこへいくんだろうと。

一時は自分にとってあまり望ましくないと思われるようなことがあったとしても、最終的には私にとって最高で最善だということがわかりました。

必ず私にとって一番うれしくて楽しくて、存在意義が発揮できるようになっていくということがわかった。必ずなっていく。

嫌なことがあったとしても、私の自我が砕かれることで、私はもっと開放される。「こうじゃなきゃやだ」というものが砕かれて、「どれでも素晴らしかったんだ」という風に思えるようになったりします。

自分でプランしている時は、私の考え通りにいかないと気が済まないという思いがありました。でも今は、この瞬間に与えられたことをする。今日私がすべきことを100%できたらいいねぇという感じ。それはひょっとしたら寝ていることかもしれないし、今日はおしゃべりして楽しむ日なんだとか。

手放してから人がどんどんやってくるようになりました。ここにはいろんな方が来られますが、私は何一つ企てないのに、必要な時に必要な人がやってきて。

出会うべくして、出会う。

どういうところに共感されて、人々はここを訪れるのですか?

なんとなく来たくなって、来られるのだと思います(笑)

存在する意味を持って、人は創造されている。一人一人意味があって。それは愛だと思う。

食事の大切さ

子ども食堂をされているのはどういう意味があってされているのですか?

子ども食堂をするんだなと思ったら、していただけ。子ども食堂するんだ~みたいな。ちょうど枚方市から子ども食堂応援しますみたいな案内があったときに、「これやるんだ~わたし」と感じた。意味は全然分からない。

もちろん対外的には色んな理由は書くことはできます。これはこういうビジョンと目的をもって、こういう計画でという風に。

でも真実は、「やるんだ~」ということだけ。でもそれに従っていくかどうかは、選択の余地がある。でも、神様はこれを私にやらせたいんだなと感じてやっていったときに、面白いことが起こっていくわけ。

子ども食堂をはじめて、どのような出来事が起きましたか?

何もわからずご飯を作ってきたのですが、ある時地元の中学校にご挨拶に行ったときに、校長先生がとても深刻な顔をされて、不登校対策室の先生をこちらに派遣されたことがありました。学校に行くのがつらい子がたくさんいるということでした。

でもうちの子ども食堂に来るようになってから、みんな学校に行けるようになりました。「進学が決まりました!」と笑顔で報告に来てくれた時は、本当に嬉しかったです。

食べ物の力は甚大です。

塩井さんを訪問した日の子ども食堂のメニュー
畑でとれたズッキーニのカレーと小魚の粉末だしををかけたサラダ
玄米の風味がしっかりする野菜たっぷりのカレー

現代食は、 メンタルに必要なホルモンや神経伝達物質を作るのに必要なミネラルが、とっても少ないです。それはもう分かっていることなのですが、多くの人がそれを知らないで、腹が立つわとか、集中できないとか、調子が悪いとか言っています。いつも学校から呼び出しがあって大変だった子が、食事を変えることでいい子になって、今ではお手伝いをいっぱいしてくれる様になったりしている。

それを知るきっかけになったのは、自分が外で働けなくなって、無農薬で農業をするようになったとき、野菜を食べてくださったお客様から色々な声を聞いたことからなんです。手足の痛みや痒みが取れた!とか、寝たきり状態が動けるようになった!とか身体の変化はもちろんですが、驚くことにメンタルが回復して、社会復帰できた!とか。本当にビックリしました。
今では、たった一回の食事でも、身体も心も影響を受けていることが明らかにわかるようになりました。

もともとの野菜は、人が幸せに生きていくだけの栄養を備えています。

これからの社会に大切なことは、どういったことだと思いますか?

私が思うのは、今はメンタル的に食べ物の影響をとても強く受けていると思います。腹が立つとか、キレるとか、いらいらするとかが、本当に食べ物によるところがとても大きい。

一番最初に知ったのは、過敏性を持つ子供たちが、スナック菓子とかファストフードなどを食べると、40分後に暴れだすということ。3時間でも4時間でもずっと暴れており、かわいそうな感じがしました。最初は特別な過敏性を持つ子供たちだけかなと思っていましたが、大人たちもみんな同じだとわかりました。

お母さんたちがいろいろ報告に来てくださるんですが、カップラーメンを食べるとブチ切れてしまいますということを良く聞きます。外食してファミレスに行ったら、穏やかなおとなしい夫が暴れたとか。一番相談が多いのは、怒りをコントロールできず子供に手をあげてしまうという相談です。

子ども食堂の中の様子。近所の子供達が学校から帰ってきて、ランドセルを置いて、遊びにいく。この日も20人くらいの様々な学年の子供達が、本当に楽しそうな笑顔で走り回っていた。

ある特定の食べ物を食べるとキレると言う報告をたくさん聞いています。まさか自分が食べ物の影響でイライラしたり、からだもしんどいことに多くの方が気づいていないように思います。

私の父が朝ファミレスに行って帰ってきたら、毎回キレるということがありました。何もしていないのに、「うっとおしい!」という様に。何を食べているの?と聞くと、やはり食事内容に問題があると感じました。父もそれがわかってから食事に気をつけるようになり、今では別人のように穏やかでそればかりか、体温も上がってビックリするほど元気です。

昔ながらの生命力のある食べ物はミネラルも豊富で素晴らしい。ですが現代食はミネラルが大幅に不足しています。その上、現代食には本来の食べ物でないものが、たくさん含まれています。

今はセミナーや講演会など色んなところに呼んでいただく機会が増えました。
私自身がメンタルサバイバーなので、向精神薬の副作用に苦しんでおられる方向けのセミナーで、お話しするケースも多いです。食事によって、本当に人生が変わります。

人は命が尽きるまで必要なミッションがあります。変なものを食べていると、病気で長生きになる。介護施設でも職員さん自身の調子が悪い人が多く、そういった相談も多いです。高齢者の方でも、介護の際に毎日噛みついていたのに、食事を変えることで、全く噛みつかなくなったりします。

本当に命があるものを食べると、それだけで楽しい気持ちになる。

ですが、喜ぶ為のホルモンを作る材料が、今の食事には大幅に不足しています。

いくら喜びなさい。愛し合いなさいと言われても、原料が足りていないと難しいですよね。

感受性の鋭い方や、繊細で過敏な子供たちは、人一倍脳が活発に動いています。脳に必要な栄養が人一倍必要なのです。言ってみれば「燃費の悪い高級車」がガス欠を起こしている状態と思ってください。大体それでピンとこられる方が多いです。「私は高級車だったんだ」ということが分かると、ハイオクをちゃんと取ったらいいんでしょ、ということになります。

自然と相手のことを思いやれるようになる。これが本当の人間の姿だったんだということがわかる。みんな自分勝手で自分のことしか考えないような状況になるのは、変なものを食べているから。本来、人は愛し合うように設計されているのです。

子ども食堂に遊びに来た子供達が、畑で採ってきたにんじん

これからについて

人生の展開は今後どうなりそうですか?

今、非常に面白いところに立っていて、人々が勝手に集まり始めて、コミュニティーができ始めています。みんな家族みたいになってきています。そういう人達がどんどん集まってきている。 子ども食堂にも手伝ってくれる人が自然に集まってくれたり、自分の家の様に使ってくれたりとかしている。血縁を超えた家族。血がつながっていない家族のように。

敷地内のくつろぎスペース

最近あるメンタルジャーナリストの方から、塩井さんは日本のピアランレスパイトの第一人者ですねと言われました。海外にはあるのですが、日本ではこういう場所は聞いたことがないと仰っておられました。

ピアランレスパイトは、ピア(仲間)・ラン(伴走する)・レスパイト(一時休憩の場所)を組み合わせた言葉です。

メンタルがしんどい方が、病院に行く前に一時休憩できる場所。当事者の人と一緒に寄り添いながら、一緒に過ごせる場所。 私自身もそういう状態を通ったので、当事者として行き場がない、家がない、帰るところがない、どうやって生きていけば分からないということは、理解できます。

私は今、回復して元気になったけれど、この瞬間にも命を断とうとしている人がいるならば、何もできないけど一緒にご飯を食べて、「大丈夫ちゃう?」ということはできる。

産後鬱で薬を処方されて、本当に大変な状態になってしまった方がいました。なだれ込む様にいらっしゃって、元気になって帰られたことがあります。また、「これで元気にならなかったら死のう。」と思っていた方が何日か滞在して、別人のように笑顔で帰って行かれたこともありました。ゴールデンウィークの時はトータルで20名くらい、いらっしゃいました。

その日その日のキャスティングが面白い。例えば、向精神薬を飲んで辛いと泣いている方の肩を、自殺直前までいった方が撫でている。そういう風景を私はただ見ているだけ。そういう場所を提供させて頂いているだけ。この人にはこの人。一人が帰られたら、また次のふさわしい人がやってきて励ましていたり。私は何も操作しようとしないので、皆さんも楽なんだと思います。

今までも色々なことがありました。「明日電気止まるかも~」ということもありました。その時に同居人の方が「別に電気止まっても死なないし~」と言われました。「確かに!死なない!」と。自分の固定概念をどんどん崩すことができました。

その時、「お金が無いと死ぬ」と言う恐怖で縛られていたことに気付きました。私は「恐怖症」と言う病名をもらうほど「恐怖」に苛まれたので気がつきましたが、人は大なり小なり、なんらかの「恐怖」に縛られているのではないかと思います。

私もそうだったのですが、多くの人は握っているものを手離すのが怖い。そこが一番苦しかったところです。前の仕事を失って、なんとか社会復帰しなくっちゃって焦っていた時に、ある方からこういう話を聞きました。

ポーランドで古い欄干にモニュメントがあって、これは大昔から人間はこうだっていうものを示したものだということでした。

車輪に人間がすごい形相でしがみついている。手を離したら、死ぬと思っている。でも本当は人はその手を離したら、自分の足で立ってどこにでも行けるし、なんでもできる。私たちはこの車輪から絶対に手を離してはいけないと思っている、ということを教えてもらった。

でも気が付いたら、私は両手にごみの様なものを握りしめていました。

「これを離しちゃだめ!」

でも両手を広げて、よく見てみるとゴミ。それを離してはいけないとしがみつきながら、毎日を同じようにぐるぐる生きていき、そして死ぬ。そう考えると手を離す勇気は大切です。

合同会社ソリトンOne-J  
http://www.soriton1j.jp/
大阪府枚方市尊延寺 3 丁目 13 – 11

会社の名前(ソリトン)の由来

「ソリトン」とは波の名前。
障害物にぶつかっても、減衰・消滅せずに、どこまでも伝わっていく不思議な波。
そんなソリトンウエーブのように、内からあふれる喜びが影響力を持って、一人から一人へと伝わっていくことを願い、「ソリトン」という名前を付けられました。

塩井さんのお勧めの本

  
食べなきゃ、危険! ―食卓はミネラル不足  小若順一 国光美佳 食品と暮らしの安全基金 (著)


イベント情報

2019年7月6日(土) 回復のためのオンラインメンタルヘルス講座2019
テーマ:ミネラルいっぱいの食事で元気な心身を取り戻そう
https://www.facebook.com/events/402516043725722/

編集後記

インタビューにお伺いしたのは、平日の15時でした。
屋外のテーブルに案内して頂き、ミントウォーターとミネラルたっぷりの小魚・アーモンドを出して頂きました。

お話をお伺いしている内に、子ども食堂にどんどん子供達が集まってきます。
子供達はニコニコしながら、「じゅんちゃーん、ただいま~!」っと言って、塩井さんの周りに集まってきます。
小魚を頬張りながら、「ここのやつ美味しい!」と、もぐもぐ食べます。
「お腹減った~!」「蛇がおったら気を付けや~」「誰と誰が喧嘩してる~!」と、賑やかになっていきます。
穏やかな夕方の日差しの中、塩井さんはその中にいて、とても幸せそうにニコニコしておられました。

「塩井さんは人の役に立ちたいから、さまざまな活動をしておられるのですか?」とお伺いしたところ、「そういう意味ではないのです」と答えられました。誰かのためにというではなく、自然の摂理が塩井さんをそう導いているのだということでした。

正直、私には意味が理解できませんでした。
でも、今回インタビュー記事をまとめる中で、少しだけ塩井さんが言っておられた意味が分かった様な気がします。本当に少しだけ。

塩井さんの「必ず私にとって一番うれしくて楽しくて、存在意義が発揮できるようになっていくということがわかった。必ずなっていく。」という言葉がとても印象的でした。

塩井さんがいらっしゃる場所はまるで桃源郷の様でした。

「自分が大切だと思いこんでしまっているものを手放し、本当に大切なものを手に入れることの大切さ。」

塩井さんの姿を見ていて、はっと気づかせて頂きました。

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