「大人になると、原っぱで遊べなくなるんです」
そう静かに語ったのは、京都カラスマ大学の学長・高橋マキさん。
印象的なこの言葉は、学びの本質を思い出させてくれる。
今回のインタビューでは、高橋さんが17年にわたり続けてきた取り組みと、その背景にある思いを伺った。

京都は「続けること」を大切にするまち
“京都カラスマ大学”は、東京・渋谷で展開している「シブヤ大学」のノウハウを活用し、姉妹校として2008年に京都で開校したNPO法人です。
『京都カラスマ大学には、校舎がありません。この「街」が、まるごとキャンパスです。』というコピーを掲げて、生涯学習とまちづくりをかけ合わせた学びの場づくりをしています。
いくつになっても学び続ける気持ちを一人ひとりが持つこと——それが社会を少しずつ良くしていく。そう信じて、活動を続けています。
もちろん、開校当初には、京都という街ならではの苦労もありました。
渋谷のイメージは「遊びのまち」。そこに「学び」を持ち込むという逆説的な面白さが注目を集め、2006年の開校以来シブヤ大学は大きな反響を呼びました。
一方で京都は、すでに「学びのまち」。
ホンモノの大学も、大学が開く無料の市民講座も数多く存在し、また、茶道などの習い事も多く、学びの場はすでに豊富にありました。
また、東京は日本中から“個”が集まってできた都市。
だからこそ、シブヤ大学のような新しいコミュニティが受け入れられたのだと思います。
しかし京都には、昔からの地域コミュニティが今もしっかりと根づいています。
また、ソーシャルやダイバーシティということばも考え方も、当時の日本にはほとんど浸透していませんでした。
求められているコミュニティの形は、地域によって違うのです。
そのため、立ち上げに関わったものの、1年ほどで諦めたメンバーも少なくありませんでした。
けれど、私は不思議と活動をやめようとは思いませんでした。
なぜなら、私自身はフリーランスの文筆家・編集者としてのキャリアがあり、東京のマスメディア中心の仕事をする中で、「外から見た京都の価値」と「内側から見た京都の価値」の差異をすでによく理解していたからだと思います。
それに「京都では、小さくても続けることが大切だ」という感覚がどこかにあったのです。
一過性のムーブメントではなく、淡々と活動を続けること。その積み重ねは、確実に周囲からの信頼につながっています。
この「続ける」という選択こそが、京都を拠点にするカラスマ大学の”らしさ”かもしれませんね。
京都だからこそ開ける“引き出し”がある。京都カラスマ大学は、そんな「学びの場」をこれからもつくっていけるのではないか——そう思っています。

原っぱで遊びを生み出せるかどうか
京都カラスマ大学では「大切なことをやっているな」という実感があります。
授業づくりでは、ゼロから「自分は今、何を学びたいか」と、問いを立てていけるかどうかがすごく大事なんです。
たとえるなら、原っぱで、何もないところから遊びを生み出せるかどうか。そこに、学びの原点がある気がしています。
最近、大人になればなるほど“白紙”の状態から何かを生み出すことが、だんだんできなくなる人が多いように感じます。
子どもの頃って、公園に行くだけで一日中遊べたはず。でも社会人としての生活が長くなると、目の前に原っぱが広がっていたとしても、「で、何して遊べばいいの?」と戸惑ってしまう人が多いみたいです。
実際、ボランティアスタッフのミーティングで「どんな授業を作ってみたいですか?」と聞いても、とっさに何も思い浮かばないという声が少なくないんです。言葉が出てこない。
子どもの頃はみんな「あれをやってみたい」「これが好き」っていう気持ちが、自然と湧いていたように思います。できるかどうかとか、他人にどう思われるかとか、気にせずに。
社会人としてのふるまいを日々続けるうちに「会議では黙って座って、他の人の意見を聞くのが自分の役割」って、無意識のうちに思い込んでしまって、それが染みついてしまうのでしょうか。
また、最初に「何をしてはいけないですか?」と、禁止事項を確認する人も多いです。
でも、学び続けていると「やりたいことをどうすれば実現できるか」を考えたり、人に教えを乞えるようになるんです。
極端な話、ペンキをぶちまけたいなら、ぶちまけてもいいと思うんです。
「やってはいけないこと」や「できないこと」を数えるよりも、「自分は何をやりたいのか?」を考えて生きられるほうが、豊かな人生になるような気がしませんか。
京都カラスマ大学で学ぶのは、資格取得のための学びではないのです。

授業コーディネーターという存在
京都カラスマ大学には、「授業コーディネーター」という少しユニークな役割があります。
授業づくりの「要」、4番バッター的存在です。
市民講座というと、どうしても「先生のお話を一方的に聞く」というスタイルになりがちですが、私たちの学びの場づくりでは、授業コーディネーターが「ひとりめの生徒」として授業をつくるようにしています。
「ここが少し分かりにくいな」「こういう話も聞いてみたい」といった自分の感覚を大切に、先生と参加者がしっかり交差できる場をデザインしていくのです。
授業が終わったあと、先生が「今日の授業、自分が一番学びになったかもしれません」と言ってくださったりしたら、心の中でガッツポーズ!ですね。

「自分でクリックする」ことの意味
もうひとつ、大切にしていることがあります。
それは、「自分でクリックして申し込む」という、参加のプロセスです。
誰かに誘われて、なんとなく来るのではなくて、自分の意思で「参加しよう」と決めて来る。
その小さな一歩が、学びに向かう姿勢を大きく変えてくれると感じています。
受講料は、基本的に無料。必要があれば、実費だけご負担いただいています。
でも、これも「お得だから来る」ではなく、「自分で選んで学びに来た」という納得感を持てるような仕組みにしたいと思っているんです。
たとえ授業の内容が今日の自分にピンとこなかったとしても、「自分で選んだこと」には意味がある。5年後のある日ふと、腑に落ちるかもしれない。私はそう思っています。
京都カラスマ大学の生徒のみなさんには「教えてもらうために参加する」ではなく、「学びたいから参加する」という気持ちを大切にしてください、とお声かけしています。

シェアカフェという「場」のデザイン
今回、取材場所となったこのカフェの中に、京都カラスマ大学の事務所があります。10年前、立ち上げのタイミングで私がディレクターとして関わらせていただいた場のひとつです。

オーナーから相談を受けて、朝・昼・夜で店長が変わるという仕組みにしてみました。ハイツの住人にとっていつ来ても違うご飯が出てくるというのは、ちょっとした楽しみになりますし、住人の方々が自然と集まってくるような場になればいいなと考えて、仕組みを設計しました。

このシェアカフェの在り方は、私たちが授業でやっていること——教室を街にひらいていく感覚と、実はとても地続きなんです。お寺や鴨川、居酒屋、カフェといった街のいろいろな場所で授業を行う。それが京都カラスマ大学の特徴のひとつでもあります。
京都カラスマ大学
https://www.karasumauniv.net/
Riverside cafe
https://riverside-cafe.jp/
インタビューを終えて
京都カラスマ大学は、「何をしてはいけないか」を教えるのではなく、「どうすれば実現できるか」を考える場。
あらかじめ用意された遊具も、マニュアルもない。そんな場所で、自分たちの想像力を働かせて、ゼロから遊びを生み出していく。
気がつけば私たちは、「良い子」「良い人」「良い従業員」といった役割を、無意識のうちに身にまとって生きているように思います。
会議では空気を読み、自分の意見よりも周囲のバランスを優先する。
社会が“正しい”とするふるまいに自分を合わせ、気がつけば、もっともらしい“禁止事項”の数々に、行動も言葉も縛られてしまっている。
でも、京都カラスマ大学はそんな社会の”当たり前”に盲目的に従うのではなく、あえて問い直すような場所でした。
「決められたルールの中で許された自由を楽しむ」のではなく、「一人ひとりが自由であることを前提に、自分たちでルールや関係性をつくっていく」。
それは、自分の頭で考え、自分の足で立つための学びの場でもありました。
もちろん、こうした価値観に気づくのは簡単なことではありません。
私たちが当たり前だと思い込んでいることに疑問を持つには、ちょっとした勇気がいります。
京都カラスマ大学には、そんな仲間がいるのだと感じました。
ともに考え、ともに迷い、ともに学ぶ。そうした仲間たちが、「本当に大切なこと」に気づくためのきっかけを与えてくれるのだと思います。
「この街では、真面目に続けるということがとても大切なんです」
混沌とした社会の中で、京都カラスマ大学の存在は確かな灯だと感じました。



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